大学とは何か。どんな価値を持つのか、進むべき道はどこにあるか。
大学人や政治家、官僚、財界人らに大学への本音を聞く。
 

大学とは何か。どんな価値を持つのか、進むべき道はどこにあるか。大学人や政治家、官僚、財界人らに大学への本音を聞く。  

 
青木栄一(あおき・えいいち)
千葉県生まれ。東北大学大学院教育学研究科教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。国立教育政策研究所教育政策評価・研究部研究員な どを経て現職。専門は、教育行政学、行政学、地方自治論、公共政策論。
 
『文部科学省-揺らぐ日本の教育と学術』(中公新書2635)
 
 
 
 

 

日本の大学の研究力凋落に歯止めをかけようと、政府が巨額の税金を注ぎ込んで「大学ファンド」 を創設した。「世界に伍する研究大学」に認定された大学に出資される。スタートに向け突貫工事で 進められているのが、認定の基準づくり。平たくいえば「世界に伍する研究大学とは何か」の詰めだ。 熱を帯びた動きに対し、「まずは、普通に研究できる状態にすること」と冷静に話すのは、新著『文部科学省』(中公新書)で文科省と大学の現状を鋭く分析した青木栄一氏(教育行政学)だ。「普通 に研究もできない」今の日本の大学が、果たして「世界に伍する」ことができるのか。

 適切な競争と評価のない世界

 
―メンテナンスも、昨日と同じ状態であればいいという話でもないだろうが。
青木 その通り。十年一日のようなものだ。文科省だけがそうではなく、日本の大学をみても、昨日と同じような明日が来ると信じて、今日は何もしてこなかった。これまで、日本の大学には適切な競争と適切な評価がなかった。五十代半ばぐらいまでに教授になって悪いことをしなければ、定年退職して名誉教授になれる。海外で名誉教授に対応するEmeritus Professorになる人はごく限られている。そこからして、なんとなく日本の大学には公務員っぽさが残っている。日本の国立大学では、悪いことをしなければ、だいたいは昇任させてもらえる。昇任基準はあるが、そもそもProfessorの役割みたいなのを議論してこなかったような気がする。研究ができてこそ教授であるべきなのに、教育、社会貢献、学内行政に逃げてしまう教授とは一体何なのか。これは学生もそうだ。これができたから単位をくださいではなく、就職が決まっているからなんとかしてください。そればっかりだ。全回出席して単位がもらえないと、苦情が来る。
 
会ったこともない学生から、「就職決まったんで単位ください」とある日突然、メールが送られてきたことがある。
青木 大学教員あるある、だ。今、大学では、多くのことが惰性で行われている。
 
―適切な競争と評価がないから、それでいいのかもしれない。
青木 そう、持続可能性は危ないが、ぬるま湯的なところがある。研究にしたってそうだ。海外でも、黙って潤沢な研究費が降ってくるわけではない。とにかく申請して、プレゼンテーションして、しっかりしたものがあれば採択される。「ビッグバン・セオリー」というアメリカのドラマは、カリフォルニア工科大学(カルテック)という名門大学が舞台だが、研究者たちが研究費獲得のために苦労する場面がよく出てくる。私の滞在中、コロンビア大学でお世話になった先生のお弟子さんが、三〇くらい申請書を出してやっと職を得ることができたと聞いた。本来あるべき競争についてまで、日本では好ましくないと勘違いされていないだろうか。健全な競争自体は、あってしかるべきだ。海外だと、教授へのプロモーションも厳しく、学生の評価が致命傷となることもあるし、最初に採用される際のジョブインタビューも、二日間ぐらいずっとチェックされると聞いている。日本では、自分の教え子を採用する傾向が根強い。国立大学はその典型だ。その結果、縮小再生産、劣化コピーになっているのではないか。
 
―どこかに突破口はないだろうか。
青木 特効薬はないが、希望はなくしたくない。国立大学はたしかに凋落していると思うが、私たち構成員がそれぞれの持ち場で今までより三%くらいプラスアルファして頑張れば、ずいぶん変わるんじゃないかと思っている。
 末端の一教員として私ができるのは、とにかく大学院生を集めること。今のジョブマーケットでは、日本人学生は優秀であるほど、学部生で卒業して企業に就職する。ただ、大学院、特に博士課程には教員と一緒に研究する「仲間」が必要だ。その予備軍として、修士課程の国内人材に期待できないのであれば、やはり世界にマーケットを見出すしかない。日本の大学にフィットするのは、東アジアからの留学生だ。日本に関心をもってくれる学生が確かにいる。丁寧にやりとりし、一〇人いたら一人ぐらいはいい人材がいるという程度の気持ちでいると、見つかる。これはコロンビア大学の先生だって同じだ。
 国立大学の感覚でいうと、教員一人当たり修士が二人いれば、けっこう回る。しっかりトレーニングを施していけば、そこから博士課程に行けそうな学生も出てくる。ところが、留学生の論文やレポートを添削するライティングセンターが貧弱だ。留学生を集めるだけ集めて放置するのは忍びないから、教員が「赤ペン先生」をしてしまう。これではいけない。早急に大学院教育を下支えする体制づくりが必要だ。さらに、博士課程に魅力を感じてもらうために、今一歩の努力が必要だ。研究の魅力ややりがいだけで博士課程の学生が増えると思ってはいけない。所詮は「金目」の話と、割り切りが必要だ。
 
―学費は払わなければいけないし、その先の就職もないし。
青木 博士課程に行くのに学費を払うというのが、日本では当然視される。私が見聞きしたアメリカの「普通の世界の大学」からすれば、これはおかしな話だ。研究費を持っている先生が自分の研究に共に取り組む優秀な人材を探し、博士課程にリクルートするわけだから、学費や生活費さえ面倒を見ることもある。日本の研究資金は、そうなっていない。そんな状況の下、今の日本では、少しでも大きい金額の研究費を取り、博士課程の学生にできるだけ資金面でのメリットを与えるやり方を考えるところから始めるしかない。
 
―丁寧に育てられた学生は、大学に対する愛着を持ってくれるのではないか。世界に伍する大学には、寄付もたくさん集まっているのではないか。
青木 
それは、アメリカ滞在中に強く感じた点だ。もし、法人化一年目からそのことを考えて取り組んでいたら、そこそこの財源になっていたはずだ。今からでもいい。寄付というものをどうやって定着させるかを考えたらいいと思う。卒業生だって、大学に世話になった思いは持っているだろう。そこにアプローチできるのではないか。
 

 
この記事は「文部科学 教育通信 No.509 2021年6月14日号」に掲載しています。
 

ひとこと

 「大学」の二文字に仰々しいパワーワードが冠せられるようになったのは、「大学(国立大学)の構造改革の方針」(二〇〇一年)からだろうか。副題は「活力にとみ国際競争力のある国公私立大学づくりの一環として」。ここを起点に、国立大学法人化に向けた改革論議が一気に熱を帯びた。以来、「個性豊かな魅力ある国立大学」(二〇〇四年)「新たな価値を生み出す礎となる知の創出とそれを支える人材育成を担う国立大学」(二〇一五年)など、目についたところだけ拾っても、改革の激しい歯車の音が聞こえてくるようだ。だが、肝心の歯車が回ったのは「パワーワード」の狭い世界だけで、「大学」の在り方を問い直すうねりにはつながらなかったように見える。今回の「世界に伍する研究大学」も大きく出た。さて、仕上げは。進まぬ現状への歯ぎしりの音だけが聞こえるようでは、困る(奈)
 

まつもと・みな

ジャーナリスト、一般社団法人Qラボ代表理事。上智大学特任教授、帝京大学客員教授、実践女子大学学長特別顧問。元読売新聞記者。著書に『異見交論崖っぷちの大学を語る』(事業構想大学院大学出版部)、『特別の教科 道徳Q&A』(共著、ミネルヴァ書房)など。
   
青木栄一(あおき・えいいち)
千葉県生まれ。東北大学大学院教育学研究科教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。国立教育政策研究所教育政策評価・研究部研究員な どを経て現職。専門は、教育行政学、行政学、地方自治論、公共政策論。
 
『文部科学省-揺らぐ日本の教育と学術』(中公新書2635)